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先人の偉業を伝える

三国港突堤(通称:エッセル堤)の紹介

「明治三大築港」として今なお機能し続ける三国港突堤

川のはん濫を防いだオランダ人技師G.A.エッセルの偉業

G.A.エッセル(右)とデ・レイケ(左)

G.A.エッセル(右)とデ・レイケ(左)

 古くから北前船の交易と九頭竜川の舟運で栄えた三国港は、江戸末期、上流から流れる土砂で毎年のように河口が塞がれ、川のはん濫による洪水と、土砂による船の出入りの阻害に悩まされていました。地元の有力者たちは、県や政府に改修を強く求め、その強い思いに応えた政府は、内務省土木局のオランダ人技師G.A.エッセルを現地に派遣しました。
 エッセルは、オランダでの経験を生かし改修計画の作成に着手。河口右岸に防波堤と導流堤を兼ねた延長511mの突堤を、左岸には河口のかなり上流までT字型の粗朶水制を設け、河口へ向かって低水路幅を徐々に狭めることにより、洪水の力で土砂を海の深い所へ流すという「阪井港近傍九頭竜川改修計画」を作成しました。
 工事は、同じくオランダ人技師のデ・レイケのもとで行われ、明治11年(1878)に着手しました。突堤に使用する岩石は東尋坊一帯から採取し、船で運ばれました。しかし、工事は日本海特有の冬季の荒天と当時流行した伝染病の「コレラ」の蔓延で難航し、また工事費も高騰してしまいました。
 さまざまな困難を乗り越え、明治15年(1882)、突堤と粗朶水制が完成しました。澪筋も計画のとおりに形成され、無事開港に至りました。
 この工事は総工事費約30万円の内、地元商人が8万円を負担した官民一体の事業でもありました。

三国港突堤の延長


 明治11年~15年に築造された突堤の延長は511mでしたが、戦後、昭和23年の福井地震で突堤が沈下したため、嵩上げが行われました。
 さらに昭和39年から昭和45年にかけてはコンクリートブロックの設置や海側の嵩上げが行われ、また、新規411mが下流側に追加され現在に至っています。

三国港突堤の延長

築造時の突堤(全長511m)


三国港突堤の構造

 河口部の柔らかい砂地盤での不等沈下を避けるため、粗朶沈床(※解説)を基礎とし、その上に中詰石を投入、さらに巨石で上層を被覆するというものです。基礎に使われた粗朶沈床は、当時日本で初めて取り入れられた先端技術であり、クヌギやナラなどの若枝を束ねた粗朶を格子状に組み、中に石を入れ沈めて土台にしたもので、設置後は隙間に砂が入り込んで安定度が増すというものです。

三国港突堤の断面推定図

工事中の様子

 三国港突堤(エッセル堤)は、粗朶沈床(※解説)をはじめとする自然素材を用いたオランダ土木技術を日本の海域に初めて具現させ、現在もなお機能を続けており、三角港(熊本県)、野蒜港(宮城県)と並ぶ「明治三大築港」と称されております。
 なお、近代港湾構造物として土木技術史上価値が高いという理由で、平成15年に国の重要文化財に指定され、さらに平成16年に土木学会選奨土木遺産に、平成21年には経済産業省近代化産業遺産にそれぞれ認定されました。

解説

粗朶沈床とは?
粗朶沈床は、河川における護床や護岸基礎部の根固め等に用いられる工法で、砂地の管龍河川および海岸の洗掘防止の工事に適しています。我が国でも明治初期にオランダ人技師デ・レイケらによって伝えられ、関東地域や関西地域の大河川に採用されるとともに、信濃川・阿賀野川下流など北陸の河川でも広範囲にわたり使われています。また、生態系を豊かにする効果もあり、粗朶によって支えられた水底は、多種多様な生物が生息できる空間にもなっています。
粗朶とは?
カエデ、サクラ、ツバキ、カシなどから切り取った枝のことで、特に枝分かれしているもの。

出典:「北陸地方整備局HP(一部加筆)」、「美しい山河を守る災害復旧基本方針における実施工法事例集(社団法人 全国防災協会」

アクセスマップ

所在地
坂井市三国町宿
アクセス
えちぜん鉄道三国
港駅より徒歩5分
エッセル堤地図

資料提供:淀川河川事務所/みくに龍翔館

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